HISTORY

Introducing the history of Yotsuya 4-chome.

[四谷大木戸]跡
(約70m/徒歩1分)

[四谷大木戸]跡
(約70m/徒歩1分)

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継承される場所、
四谷〜新宿御苑。

土地には歴史と、それにともなう物語がある。
その時代の文化や人の暮らしが息づいた地には、
繁栄があり、華やぎが生まれる。
その雰囲気は現代の四谷〜新宿御苑でも感じとることができる。

そして、「クラッシィタワー新宿御苑」建設地、四谷四丁目は、
かつて宿場町として栄え、「四谷永住町」と呼ばれ、
安住の地への願いが込められた町。

HISTORY 01

宿場町「内藤新宿」と、
関所「大木戸門」。

新宿内藤町。四谷を含むこの辺り一帯は、
高遠藩主であった内藤家が、徳川家康から授かった地。
やがて内藤家がその一部を返上したことで宿場町「内藤新宿」が
造られ、甲州街道から江戸に出入りする通行人や
荷物を取り締まる関所「大木戸門」もここに設けられた。

江戸名所図会 四谷大木戸 ※現在の新宿御苑正門付近

江戸名所図会 四谷大木戸 ※現在の新宿御苑正門付近

名所江戸百景 四ツ谷内藤新宿/国立国会図書館デジタルコレクション提供

名所江戸百景
四ツ谷内藤新宿/国立国会図書館デジタルコレクション提供

HISTORY 02

広重が浮世絵に描いた、
江戸時代の桜の名所。

歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれた玉川上水は
内藤町あたりに流れ、春になれば満開の桜に包まれ、
多くの花見客で賑わった。現在ではかつての流れに沿って、
新宿御苑北縁に「玉川上水・内藤新宿分水散歩道」が
造られており、当時に思いを馳せることができる。

名所江戸百景 玉川堤の花/国立国会図書館デジタルコレクション提供

名所江戸百景 
玉川堤の花/国立国会図書館デジタルコレクション提供

HISTORY 03

安住の地への願いが
込められた町。

「クラッシィタワー新宿御苑」が生まれる四谷四丁目はもともと、
「四谷永住町」と呼ばれていた。
当時、隣町であった「愛住町」とともに
“末永く安住の町になるように”との願いが
町名に込めたと伝えられている。

昭和16年頃「大東京区分図三十五区之内 四谷区詳細図」

昭和16年頃「大東京区分図三十五区之内 四谷区詳細図」

江戸時代に宿場町として栄えた四谷界隈。
明治時代には市電が行き交い、
また文豪が生まれた地でもある。
そうして時代に培われてきた華やぎや誇りは、
いまも息づいている。

画像提供:国際日本文化研究センター「東京観光圏:昭和9年」内容年代=1934年

画像提供:国際日本文化研究センター「東京観光圏:昭和9年」内容年代=1934年

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伊勢丹・旧三越新宿店
新宿の華やぎを演出してきた多くの百貨店。

新宿の華やぎをつくっている多くの百貨店。 その先駆けが1926年にオープンした「ほてい屋」。 その「ほてい屋」を買収した「伊勢丹」は場所を変えることなく、 いまも創建からの面影を残す姿で新宿三丁目の交差点で存在感を見せている。 また、「三越」も1923年に新宿へ進出。 1930年には新宿大通りに当時としては珍しい地上8階、地下3階のビルを建てて話題になった。

新宿通り 昭和20年代後半(出典:新宿歴史博物館)

新宿通り 昭和20年代後半(出典:新宿歴史博物館)

京王新宿駅
新宿の賑わいの歴史のなかにあった京王電鉄。

京王電鉄の発着点「新宿駅」。 その始まりは1915年、「伊勢丹 新宿店」の筋向かいにあたる 追分交差点に「新宿追分駅」として開業。 その後、1927年に「四谷新宿駅」、 1937年に「京王新宿駅」と駅名を変えながら、 1945年に現在の新宿西口に移転した。 鉄道の発達とともに繁華街は賑わいをみせていく。 新宿の歴史の流れのなかに。京王電鉄があった。

明治通りと甲州街道が交差する現新宿4丁目交差点付近(出典:ライカ鉄道写真全集4)

明治通りと甲州街道が交差する現新宿4丁目交差点付近
(出典:ライカ鉄道写真全集4)

新宿御苑
新宿御苑の自然にも
由緒が息づいている。

明治政府が内藤家から上納された広大な屋敷跡と 4年の歳月をかけて大きく改造して完成したのが新宿御苑。 後に「内藤植物御苑」として運営されながら、後に国民公園と定められて、一般に公開されるようになった。 当初は皇室の庭園として利用されたが、後に国民公園と定められて、一般に公開されるようになった。

ゴクラクチョウカ参考写真

ゴクラクチョウカ参考写真

多武峯内藤神社
江戸期からの長い歴史が刻まれた、
内藤家の土地。

江戸時代、四谷を含む一帯は内藤清正の土地だった。 内藤家の祖先は藤原鎌足で、鎌足を祀った内藤神社を創建。 後に多武峯内藤神社と改名し、いまも現存している。 内藤家の土地は、東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保に及ぶほどの広大さを誇った。 この土地の一部が甲州街道の新しい宿場街となり、内藤氏の屋敷地であったことと、 新しい宿ということで「内藤新宿」と名付けられ、新宿の地名の起源となる。

多武峯内藤神社(引用:新宿区 文化観光産業部-文化観光課(https://tesshow.jp/shinjuku/shrine_naito_tonomine.html)

多武峯内藤神社
(引用:新宿区 文化観光産業部-文化観光課
(https://tesshow.jp/shinjuku/shrine_naito_tonomine.html)

新宿通り市電
街に溶け込みながら走る、路面電車のある風景。

明治時代に開業した路面電車。 新宿区内では1903年に半蔵門〜新宿間の開業を皮切りに 最大で12系統もあった。 当時、東京市民の足として大いに活用され、 都心を活性化させた路面電車。 新宿の風景とひとつになりながら走るその姿は 旧き良き、東京の風景。

新宿通り(出典:国立国会図書館デジタルコレクションより「大東京寫眞帖」)

新宿通り
(出典:国立国会図書館デジタルコレクションより
「大東京寫眞帖」)

慶應病院
さらなる医療の充実へ向けて、歴史を積み重ねる慶応義塾大学病院。

慶應義塾大学の創設者である福沢諭吉が支援していた 北里柴三郎を初代病院長として、1920年に開院した慶應義塾大学病院。 1945年、空襲により医学部・病院施設の約6割を消失するが、 1948年には戦後最大の木造建築2階建、153病床の病院本館を竣工。 その後、施設のさらなる充実や先進的医療の開発を行いながら、 2017年には医学部創立100年、2020年には大学病院開院100年を迎えた。 そうしていまも、日本を代表する大学病院のひとつとして歴史を積み重ねている。

昭和初期の慶應義塾大学病院正門(出典:「慶応義塾七十五年史」[1932年])

昭和初期の慶應義塾大学病院正門
(出典:「慶応義塾七十五年史」[1932年])

明治神宮外苑
スポーツと文化、芸術の拠点となる明治神宮外苑。

明治天皇と皇后の人徳を伝えるために。 体力の向上と心身の鍛練の場として、また文化芸術を普及させる拠点となるよう スポーツ施設や文化施設が建造された明治神宮外苑。 敷地内にある豊かな緑は都心の真ん中のオアシス。 絵画館前の銀杏並木は秋には美しく彩られ、 季節の風物詩として多くの人に愛されている。

明治神宮外苑(出典:国立国会図書館デジタルコレクションより「大東京寫眞帖:昭和15年出版」)

明治神宮外苑
(出典:国立国会図書館デジタルコレクションより
「大東京寫眞帖:昭和15年出版」)

聖徳記念絵画館
時代を物語る80の芸術作品、聖徳記念絵画館。

明治神宮外苑のなかでも中心的な建物となっている聖徳記念絵画館。 ドーム状の荘厳な姿は1926年に建設された。 建物内には明治天皇が中心となった維新の大改革と その時代の歴史的光景を史実に基づいて描いた80枚の名画が飾られている。 それはどれも一流の画家の手による芸術作品でありながら、 政治的、文化的にも貴重な資料となっている。 2011年には「直線的な意匠と先駆的技術を採用した、わが国初の美術館建築」と 評価され、重要文化財に指定されている。

明治神宮外苑聖徳記念館(出典:国立国会図書館デジタルコレクションより「大東京寫眞帖:昭和15年出版」)

明治神宮外苑聖徳記念館
(出典:国立国会図書館デジタルコレクションより
「大東京寫眞帖:昭和15年出版」)

赤坂離宮
明治時代、洋風建築の技術の粋を集めた迎賓館赤坂離宮。

皇太子殿下(後の大正天皇)のご成婚を控え、 洋風の東宮御所をつくるために、当時の著名な学者や芸術家、 技術者などが総動員されて建設された、 明治の洋風建築の集大成である迎賓館赤坂離宮。 1968年に赤坂離宮を迎賓館へと改修。 2009年には本館などが国宝に指定された。

赤坂離宮(出典:国立国会図書館デジタルコレクションより「大東京寫眞帖」)

赤坂離宮
(出典:国立国会図書館デジタルコレクションより
「大東京寫眞帖」)

半蔵門
服部半蔵が名前の由来という半蔵門。

半蔵門、その名前は伊賀上野の武士であった服部半蔵から取られている。 徳川家康から厚い信頼を得ていた服部半蔵は、家康から門の守備を命じられ、 その任務に自らが率いる伊賀衆があたった。 そのことから、この門が半蔵門と呼ばれるようになったという通説がある。 そんな半蔵門は甲州街道に通じる門として、現在もその姿を残している。

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防衛省
歴史を物語る地にある防衛省。

日本の中央省庁のひとつである防衛省、 その庁舎があるのは尾張藩徳川家の上屋敷跡地。 ここに1874年、陸軍士官学校が開校し、戦争中には陸軍省にもなった。 戦後は陸上自衛隊の駐屯地となり、 2000年から防衛庁(現・防衛省)へ。 旧陸軍士官学校は「市ヶ谷記念館」として現在も残されており、 見学ツアーも行われるなど歴史スポットになっている。

陸軍士官学校(出典:国立国会図書館デジタルコレクションより「最新大東京名所写真帖」明治42年出版)

陸軍士官学校
(出典:国立国会図書館デジタルコレクションより
「最新大東京名所写真帖」明治42年出版)

三島由紀夫
世界の文豪、三島由紀夫を生んだ街、四谷。

世界各国に愛読者がいる三島由紀夫。 近代の日本文学を代表する三島は1925年、四谷四丁目に生まれた。 その後、1933年に信濃町へと転居。 1937年に渋谷区松濤に移るまで、幼少時代を四谷で過ごした。 四谷での三島は学習院初等科に通う。 病弱でありながらも、母と穏やかな日々を送っていたといわれている。 ノーベル文学賞の候補になるほどの作家が幼少期を過ごした四谷。 この街はインターナショナルな文豪にどんな影響を与えたのか。 そんなことを考えながら街を歩くのも愉しい。

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1伊勢丹・旧三越新宿店
新宿の華やぎを演出してきた多くの百貨店。

新宿の華やぎをつくっている多くの百貨店。 その先駆けが1926年にオープンした「ほてい屋」。 その「ほてい屋」を買収した「伊勢丹」は場所を変えることなく、 いまも創建からの面影を残す姿で新宿三丁目の交差点で存在感を見せている。 また、「三越」も1923年に新宿へ進出。 1930年には新宿大通りに当時としては珍しい地上8階、地下3階のビルを建てて話題になった。

新宿通り 昭和20年代後半(出典:新宿歴史博物館)

新宿通り 昭和20年代後半(出典:新宿歴史博物館)

2京王新宿駅
新宿の賑わいの歴史のなかにあった京王電鉄。

京王電鉄の発着点「新宿駅」。 その始まりは1915年、「伊勢丹 新宿店」の筋向かいにあたる 追分交差点に「新宿追分駅」として開業。 その後、1927年に「四谷新宿駅」、 1937年に「京王新宿駅」と駅名を変えながら、 1945年に現在の新宿西口に移転した。 鉄道の発達とともに繁華街は賑わいをみせていく。 新宿の歴史の流れのなかに。京王電鉄があった。

明治通りと甲州街道が交差する現新宿4丁目交差点付近(出典:ライカ鉄道写真全集4)

明治通りと甲州街道が交差する現新宿4丁目交差点付近
(出典:ライカ鉄道写真全集4)

3新宿御苑
新宿御苑の自然にも
由緒が息づいている。

明治政府が内藤家から上納された広大な屋敷跡と 4年の歳月をかけて大きく改造して完成したのが新宿御苑。 後に「内藤植物御苑」として運営されながら、後に国民公園と定められて、一般に公開されるようになった。 当初は皇室の庭園として利用されたが、後に国民公園と定められて、一般に公開されるようになった。

ゴクラクチョウカ参考写真

ゴクラクチョウカ参考写真

4多武峯内藤神社
江戸期からの長い歴史が刻まれた、
内藤家の土地。

江戸時代、四谷を含む一帯は内藤清正の土地だった。 内藤家の祖先は藤原鎌足で、鎌足を祀った内藤神社を創建。 後に多武峯内藤神社と改名し、いまも現存している。 内藤家の土地は、東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保に及ぶほどの広大さを誇った。 この土地の一部が甲州街道の新しい宿場街となり、内藤氏の屋敷地であったことと、 新しい宿ということで「内藤新宿」と名付けられ、新宿の地名の起源となる。

多武峯内藤神社(引用:新宿区 文化観光産業部-文化観光課(https://tesshow.jp/shinjuku/shrine_naito_tonomine.html)

多武峯内藤神社
(引用:新宿区 文化観光産業部-文化観光課
(https://tesshow.jp/shinjuku/shrine_naito_tonomine.html)

5新宿通り市電
街に溶け込みながら走る、路面電車のある風景。

明治時代に開業した路面電車。 新宿区内では1903年に半蔵門〜新宿間の開業を皮切りに 最大で12系統もあった。 当時、東京市民の足として大いに活用され、 都心を活性化させた路面電車。 新宿の風景とひとつになりながら走るその姿は 旧き良き、東京の風景。

新宿通り(出典:国立国会図書館デジタルコレクションより「大東京寫眞帖」)

新宿通り
(出典:国立国会図書館デジタルコレクションより
「大東京寫眞帖」)

6慶應病院
さらなる医療の充実へ向けて、歴史を積み重ねる慶応義塾大学病院。

慶應義塾大学の創設者である福沢諭吉が支援していた 北里柴三郎を初代病院長として、1920年に開院した慶應義塾大学病院。 1945年、空襲により医学部・病院施設の約6割を消失するが、 1948年には戦後最大の木造建築2階建、153病床の病院本館を竣工。 その後、施設のさらなる充実や先進的医療の開発を行いながら、 2017年には医学部創立100年、2020年には大学病院開院100年を迎えた。 そうしていまも、日本を代表する大学病院のひとつとして歴史を積み重ねている。

昭和初期の慶應義塾大学病院正門(出典:「慶応義塾七十五年史」[1932年])

昭和初期の慶應義塾大学病院正門
(出典:「慶応義塾七十五年史」[1932年])

7明治神宮外苑
スポーツと文化、芸術の拠点となる明治神宮外苑。

明治天皇と皇后の人徳を伝えるために。 体力の向上と心身の鍛練の場として、また文化芸術を普及させる拠点となるよう スポーツ施設や文化施設が建造された明治神宮外苑。 敷地内にある豊かな緑は都心の真ん中のオアシス。 絵画館前の銀杏並木は秋には美しく彩られ、 季節の風物詩として多くの人に愛されている。

明治神宮外苑(出典:国立国会図書館デジタルコレクションより「大東京寫眞帖:昭和15年出版」)

明治神宮外苑
(出典:国立国会図書館デジタルコレクションより
「大東京寫眞帖:昭和15年出版」)

8聖徳記念絵画館
時代を物語る80の芸術作品、聖徳記念絵画館。

明治神宮外苑のなかでも中心的な建物となっている聖徳記念絵画館。 ドーム状の荘厳な姿は1926年に建設された。 建物内には明治天皇が中心となった維新の大改革と その時代の歴史的光景を史実に基づいて描いた80枚の名画が飾られている。 それはどれも一流の画家の手による芸術作品でありながら、 政治的、文化的にも貴重な資料となっている。 2011年には「直線的な意匠と先駆的技術を採用した、わが国初の美術館建築」と 評価され、重要文化財に指定されている。

明治神宮外苑聖徳記念館(出典:国立国会図書館デジタルコレクションより「大東京寫眞帖:昭和15年出版」)

明治神宮外苑聖徳記念館
(出典:国立国会図書館デジタルコレクションより
「大東京寫眞帖:昭和15年出版」)

9赤坂離宮
明治時代、洋風建築の技術の粋を集めた迎賓館赤坂離宮。

皇太子殿下(後の大正天皇)のご成婚を控え、 洋風の東宮御所をつくるために、当時の著名な学者や芸術家、 技術者などが総動員されて建設された、 明治の洋風建築の集大成である迎賓館赤坂離宮。 1968年に赤坂離宮を迎賓館へと改修。 2009年には本館などが国宝に指定された。

赤坂離宮(出典:国立国会図書館デジタルコレクションより「大東京寫眞帖」)

赤坂離宮
(出典:国立国会図書館デジタルコレクションより
「大東京寫眞帖」)

10半蔵門
服部半蔵が名前の由来という半蔵門。

半蔵門、その名前は伊賀上野の武士であった服部半蔵から取られている。 徳川家康から厚い信頼を得ていた服部半蔵は、家康から門の守備を命じられ、 その任務に自らが率いる伊賀衆があたった。 そのことから、この門が半蔵門と呼ばれるようになったという通説がある。 そんな半蔵門は甲州街道に通じる門として、現在もその姿を残している。

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11防衛省
歴史を物語る地にある防衛省。

日本の中央省庁のひとつである防衛省、 その庁舎があるのは尾張藩徳川家の上屋敷跡地。 ここに1874年、陸軍士官学校が開校し、戦争中には陸軍省にもなった。 戦後は陸上自衛隊の駐屯地となり、 2000年から防衛庁(現・防衛省)へ。 旧陸軍士官学校は「市ヶ谷記念館」として現在も残されており、 見学ツアーも行われるなど歴史スポットになっている。

陸軍士官学校(出典:国立国会図書館デジタルコレクションより「最新大東京名所写真帖」明治42年出版)

陸軍士官学校
(出典:国立国会図書館デジタルコレクションより
「最新大東京名所写真帖」明治42年出版)

12三島由紀夫
世界の文豪、三島由紀夫を生んだ街、四谷。

世界各国に愛読者がいる三島由紀夫。 近代の日本文学を代表する三島は1925年、四谷四丁目に生まれた。 その後、1933年に信濃町へと転居。 1937年に渋谷区松濤に移るまで、幼少時代を四谷で過ごした。 四谷での三島は学習院初等科に通う。 病弱でありながらも、母と穏やかな日々を送っていたといわれている。 ノーベル文学賞の候補になるほどの作家が幼少期を過ごした四谷。 この街はインターナショナルな文豪にどんな影響を与えたのか。 そんなことを考えながら街を歩くのも愉しい。

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※掲載の「[四谷大木戸]跡」の写真は2022年10月に撮影したものです。